私が、
 私が、
 貴方の眠りを守ってあげます、
 から。


 water 3.


 私はその声を覚えていた。はっきりと、鮮明に覚えていた。
 

『別に、目の前であんなの見たら誰だって助けるだろ。礼なんか要らねぇよ、どうせもう会うこともねぇだろうしな』



 私はだんだんピントが合わさっていく視界の中で、確かに、確かに見覚えのある顔を見つけた。
 あの時はサングラスをかけていたから目の色まではわからなかった。
 あの時は随分厚着をしていたから肌の色や体温の低さまではわからなかった。
 今はサングラスを外していて、随分薄着をしていた。
 目が真っ赤で、肌が透き通るように白い。それは雨に打たれていることによってさらに透き通って見えた。
 その姿は紛れもなくデッドエンド、恐らく3兄弟のうちの1人だった。
 だけど確かに、


 確かに、さっき私を不良達から助けてくれた、その人だった。




「あ、なた……」

 
 どうして。
 どうしてどうしてどうして。
 どうしてこんなことが。



「どうして……デッド、エンド……?」


 
 その人は、私の声に反応したようだった。振り上げられていたナイフがなかなか落ちてこなかった。
 私とその人は暫くそのままの状態で制止していた。真っ赤な目には、明らかに動揺と驚きの色が浮かんでいた。
 唇が微かに震えているのも、この目で見た。
 ナイフを振り上げている手も、ぶるぶると震えていた。それは冷たい雨に打たれて寒かったからなのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。
 その理由は私にはわからなかった。
 私は言葉を失っていた。逃げようという考えすら浮かんでこなかった。
 全ての思考が停止してしまっていたのかもしれない。
 だけどそれは向こうも同じだったようで、この状態から動こうとしない。振り上げたナイフも振り下ろす気配もない。
 耳元で雨が砕けていく音を聞いていた。
 それ以外何も聞こえなかった。



「―――――……なんでだよ……」



 ギリ、と歯が軋む音が聞こえた。
 それは私が出した音ではなかった。間を置かずに、ガチガチと歯が鳴る音も聞こえて来たからだ。
 そのか細い声は、間違いなく私の上から降って来ていた。


「なんでお前がここにいんだよ……なんでまだこんなところにいんだよ、何で帰ってなかったんだ……」


 彼は、私が思いもしなかったことを震える声で言った。
 心なしかナイフを振り翳している腕の震えが大きくなったように思う。
 ナイフはまだ私へと振り下ろされなかった。彼は迷っているようだった。このナイフを私へと振り下ろすべきなのか、それとも鞘に収めるべきなのか。
 私の口から言葉が出て来る気配はまだなかった。
 髪も服も、肌も靴も全部がずぶ濡れで、このままでは体温までが奪われてしまうと思ったけれど、私はそこから動けなかった。
 ただ雨の光を受けて時折キラキラと輝くナイフの切っ先を見つめていた。
 恐怖は、なかった。
 その時、あれほど私の背中や髪に打ちつけていた激しい雨が、急に優しくなった。
 ザァァーという音がサァァーという濁点を抜かした音になった。
 雨の変化に気付いたのか、私に馬乗りになっていた彼も少し顔を上げ、空を見ようとしていた。
 私は雨の音を聞きながら、腐った空を割って、――――……つまり雲を割って、少しだけ、濁ってはしまったけれど、それでも確かな青を見つけた。
 晴れてきたんだろうか? その光はキラキラと輝き、雨に濡れたもの全てを照らしていった。
 それはもちろん、私もこの人も。
 私と彼は、暫しの間その輝きに目を奪われていた。
 だけど私は、彼のナイフを振り翳した手の力が緩んでいくのをしっかりと見ていた。
 



 私は身体を起こした。それから彼が空を眺めている間に手を伸ばし、ナイフを持ったままの彼の手を、掴んだ。





「―――――……ッ?!」
 手を掴まれて驚いた彼はぎょっとしたような目で私を見た。
 私はとにかくこのナイフを捨てさせようと思い、掴んだ腕を放そうとは思わなかった。
 視線を逸らさなかった。彼の真っ赤な目は、大きな動揺と驚き、そして僅かながら恐怖や怯えといったようなものが見えたから。
「……っお願いです、ナイフを放してください。このままじゃ、私も貴方も死んじゃいます……っ!」
 何時の間にかギリギリと、彼の手に爪が食い込んでしまうくらいに強く握っていた。
 さっきまでの雨のせいかもしれなかったが、彼の手は思わず手を引っ込めたくなるくらいに冷たかった。まるでそれは氷に触れているかのようだった。
 デッドエンドの特徴。
 目が真っ赤になる。
 体温が異常に低くなる。
 肌の色が異常に白くなる。
 
 ……全部、当て嵌まっているじゃないか。


「ッテメェ……放せ!」
「嫌です…っ!」
 彼の力が強いだろうということは考えていた。恐らく私なんかの細腕よりもずっとずっと力はあるのだろう。
 実際この時の私の力なんて振り払おうと思えばすぐに振り払うことの出来る力だった。
 だから一瞬のスキをついてナイフを弾かせようと思った。彼の思考が追いついてしまう前なら、私にも出来ないことはないと思って、掴んだのだ。
 だけどダメだ。このままだと振り払われてしまう。
 そうしたら今度こそナイフを振り下ろされて、私ももう終わりだ。
 今はこの手の力を緩めずにいられることが、私の命を繋ぎとめている唯一の救いだった。
 しかし私の手の力もそろそろ限界に来ていた。もう無理かもしれない。
 ……私も、あの人と一緒の場所に行けるなんて。


『―――……違うんだ。こいつらは…っ、何にも悪くない、デットエンドだとか……人間じゃないとかっ、そんなのは、誰が決めた……?』



 確か、あの人がこの人達のようなデッドエンドに切りつけられて死ぬ直前、私に言っていた。
 だけどこの先が思い出せない。どうしてだろう、あんなに、あんなに大切な人の最後の言葉であったはずなのに。
 もしかしたらよく聞いていなかったのかもしれない。あの日の私は、とにかく錯乱して喚いて泣き叫んでいたから。
 あの人はあの日、私に何を伝えようとしていたのだろう。
 優しかった人。誰よりも何よりも優しかった人。
 貴方はあの日、私に何が言いたかったのだろう。
 その時、私に手を掴まれている彼の姿が丁度見えた太陽と重なって、私の下に影が出来た。
 ナイフだけがキラキラと輝いていた。
 本当に腕の力はもう限界に来ていた。もう無理だ。
 私は全てを諦め、潔く大好きだったあの人と同じ場所へ行こうと、手の力を緩めた時だった。

「……ッおい!!」




「ッ?!」
「え……っ?」



 私のでも彼のでもない声を聞いた。それはさっき聞いた、あの色黒なデッドエンドの声だった。
 そして逆光となっていた彼の影にもう1つ、別の人影が近付いてくるのを私の目が捉えた。
 何が起こったのかわからなかった。
 そのもう1つの影は走って近付いて来ているようだった。私はそれをあの色黒……3兄弟の1人が彼を助けに来たのだと思った。
 だけどそれは違っていた。その人影は私に目もくれず、何をしたのかと思えば彼の手からナイフを弾いたのだ。
 私と同じく何が起こったのか瞬時に理解出来なかった彼はまず後ろを振り向いた。
 後ろを振り向いた先に飛んできたのは人間の腕だった。
 彼は殴られたのだ。横殴りに吹き飛ばされ、私の身体は一瞬で自由になった。
 だけど身体が自由になったというのに、私はそこから立ち上がれないでいた。
 ただ私の目は一点に釘付けになっていた。
 だって、さっきまで私の身体に馬乗りになってナイフを振り翳していた彼が、私にナイフを振り下ろすのを躊躇っていた彼が、
 数人の人間によって取り囲まれ、殴られたり蹴られたりしているのだから。
 そしてそれは彼だけの話ではなかった。
 弟のことに気をとられてすっかり油断していた色黒の兄、背の低い弟もまた、数人がかりで取り押さえられ、同じような目に遭っていた。
 

 どうして。
 どうしてそんなことするの。



「っやめてください!!」

 この声で、彼へと振り下ろされていた手の動きが止まった。
 思わず息が荒くなって、肩が上がっていた。
 彼を殴っていた数人の男達はどうしてそんなことを言うのかという風な目で私を見た。
 だってこいつはデッドエンド、人間を殺して楽しんでいる、人間とは違う、邪魔な生き物、存在してはいけないもの……という目をしていた。
 私にはそれが耐えられなかった。
 確かにデッドエンドは憎い。殺してやりたい程憎い。だってこいつらは平気で私の恋人を奪っていったのだから。
 
 だけど、
 だけどこの人は。



「…………ッ警部、大変です! この雨でデッドエンドが大量発生して、処分室の空きがありません……!」
「何だと?! ええいどうなっているんだ! もう一度確認して来い!」
「わ、わかりました!」
 ばしゃばしゃと水溜りを踏みつけ泥をズボンの裾に飛び散らせながら1人の男が走ってきた。
 処分室の空きがないと必死に訴えていた。
 それではこの人はどうなるのだろう。処分室に入れることが出来ないのならば、この人達はどうなるのだろう。逃がしてもらえるはずもないし。

 
「……警部、このデッドエンドは死亡を確認しました」
「こっちもです、息はありません」


 心臓が跳ねた。
 あの色黒は、死んでしまった。
 そして背の低い方も、死んでしまった。
 手の震えを抑えられないでいた。奥歯がガチガチと鳴っている。
 雲の隙間から漏れた太陽は、今も私を照らしていた。


「となると、残りはこいつだけか……」

 警部と呼ばれたその人は、私にナイフを振り翳していた彼を見て、ため息をついた。
 人の影から僅かに見える彼の姿はとても痛々しかった。
 所々が腫れて赤黒くなっていたし、口元には血も滲んでいた。だけどそれ以上に見ていられなかったのは、その虚ろな瞳だった。
 涙も何もない。だけど感情も含めて全てを失ってしまったような、そんな虚無の目をしていた。
 呼吸の度に肩が上がっていたから、生きていることはわかった。
 だけどこんなの、死んでるも同じじゃないか。


「―――――――……あの、」

 警部が私を見た。




「私の部屋でよかったら、その人を入れてあげられますけど………」



 自分でもすごいことを言うなぁ、と思った。



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