みんな1人じゃないから。




 water 4.


『それでは3日から1週間程そちらのお部屋をお借りします。
 奴が生きている間は、食料を一切与えないでください。水だけなら構いませんが、清浄な水をお願いします。
 奴は毒素を含んだ水を飲まないと生きてはいけません。
 危害を及ぼすようであれば至急ご連絡ください。1日に1度、こちらからご連絡しますが、何かありましたらいつでも連絡してください。
 それでは、よろしくお願いします』


 警部のその言葉に私は小さく「はい」とだけ頷いて立ち上がった。
「ホラ、立つんだよ!」
「…………」
 私の家までは刑事さんが1人付き添いとしてついて来てくれた。彼には手錠が嵌められ、その横をその刑事さんがしっかりと固めていた。
 彼はずっと俯いていた。焦点の合わない目でどこか1点を見つめていた。
 どこを見ていたのかは、わからなかった。
 足も殴られたのか、終始彼は足を庇うように引き摺って歩いていた。
 道行く人達が私達を見てこそこそ話したり、傷だらけの彼を指差して笑っていく子供もいた。
 みんなこうやって生きるしかないんだ。
 デッドエンドは人間とは違うもの。存在してはいけないもの。
 そう教え込まれて今日まで生きてきたのだから。その反応は何処も不思議ではなかった。
 実際私も、ああ言ったはいいが、彼を自宅に連れてきてどうしようというのは全く考えてはいなかった。
 多分警部に言われた通りにやるのだとは思うが、よくわからないままでいた。
 歩いている間誰も一言も喋ろうとはしなかった。刑事さんも私も、彼も。
 だんだん晴れてきた空も、日が沈もうとしていた。
 そうして暫く歩いて、私の家に辿り着いた。

「ここです」
「あ、ハイ。それでは、私はこれで失礼しますので、申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「いえ……おつかれさまでした」

 刑事さんは彼から手を離し、深く私に頭を下げると、くるりと踵を返して行ってしまった。
 刑事の手から離れた今も彼は、何もせずに俯いていた。
 少しだけ見えた表情は、やっぱり何の感情もなかった。涙もなければ、悔しいといったような表情もなかった。
 ただ私には、その姿は余りにも残酷に見えた。
 だけど、とりあえず中に入れなければと思った。
「ねぇ、入りましょう」
 その言葉に彼は頷きもせず、ただ私の後をゆっくりとついていった。
 私は玄関の鍵を開け、ゆっくりドアを引いて彼を招き入れた。彼はドアの前に立った私には目もくれず、ただ静かに玄関へと入っていった。
 それを確認してから、私はゆっくりドアを閉め、また鍵をかけた。


「……ここです」
「ん……」
 私は2階へと誘導し、いつも私が寝ている部屋のドアを開け、彼に言った。
 彼は小さく頷いて、何の躊躇いもなく入っていった。そしてベッドではなく、床にそのまま座り込み、大きな息をひとつ吐いた。
 ここにいる間は、この部屋の何を使ってもいい。もちろんベッドを使ってくれても構わない。そう言って私はドアを閉めた。
 一応の決まりに乗っ取って、かちゃんと鍵も閉めた。
 ドアの向こう側からは何も聞こえてはこなかった。
 聞こえてこない方がよかった。
 私はゆっくり踵を返し、ぱたぱたと階段を下りていった。




 カチカチという時計の音だけが聞こえる。
 時計を見れば、今はもう日付が変わろうとしていた。
 テレビもつける気にはなれなかった。テーブルにコップ1杯の水だけを置き、椅子に膝を立てて座っていた。
 あの人はどうしているだろう。まさかまだ死んでなんかいないよね。
 何をしていても頭の中はそのことでいっぱいだった。
 デッドエンドと聞けば、私の大事な恋人を奪った憎い悪魔と、今でもそう答える。今でもデッドエンドは殺してやりたい程憎い。
 あの人だってデッドエンドだ。何をしたって恋人を奪った憎い悪魔の同族であることには変わりはない。
 だからこうして自らの部屋を処分室として利用してもいいとそう言った。
 さっさと死んでしまえ。さっさと死んで楽になってしまえばいい。
 あんな深い傷を負っていれば3日と言わず明日には死んでいるかもしれない。
 そうなってくれた方がいい。実際あの人だってさっさと死にたいだろうに。

 だけど本当に、それでいいのだろうか?


『……憎むなら、世界を……世界を憎むんだ。こいつらは、世界に殺されたんだ……っ、だから悪いのは、俺でも、こいつらでもなくて、世界なんだよ……っ』



 あの人は死ぬ直前まで私に訴え続けていた。
 こいつらは悪くない、悪いのは世界だ、憎むなら世界を憎め、こいつらは世界に殺された、と。
 そうなのかもしれない。あの人は、わかっていたのかもしれない。
 だけどあの人が私に伝えようとした、一番大事なことが思い出せない。もっと大事な、もっと大切なことがあったはずだ。
 それなのに何故。
 私は暫く考え込んでいた。コップの水に手をつける気にもなれず、ゆらゆらと揺れている水面をぼんやりと見ていた。
 その揺れる水面の眺めるうちに眠くなり、私は椅子の上で膝に顔を預け、眠り込んでしまった。










 一番大切なことは、何だっただろうか。


「………………」
 ゆっくりと視界が開けていく。ピントがずれまくりのぼんやりとした視界は徐々にはっきりしていき、その輪郭をゆっくりと取り戻していった。
 私は膝から顔を上げ、時計を確認した。5時を指していた。
 最近は日の出が早い。あと1時間もすればじきに明るくなるだろう。
 そして私はテーブルの上に水を入れたコップを置いたままだということに気付いた。
 この水は浄化されている。恋人が死んでから、貯めていたお金をすべて使って浄水機を買ったからだ。
 私はそれを飲み干した。少し薬くさいけれど、ちゃんと飲める水の味だった。
 一気に空になってしまったコップの水滴が落ちていく。
 あの人は、どうしているだろうか。私は立ち上がってそのコップをもう1度手に取り、台所へと歩き出した。
 蛇口を捻り、コップに水を入れた。そのコップを持って、私は階段へと足を進めた。
 1歩踏み出すごとにコップに入った水が揺れた。
 階段を上り終わって、部屋の前まで来た。心臓の動きが早くなっていた。呼吸を整え、ノックした。
 ドアの向こうからは何の返事も返っては来なかった。私は構わずドアをゆっくりと開けた。


 昨日と同じ姿勢で、壁へ寄りかかり、片膝を立てて座り込んでいる彼を見つけた。



「………何だよ」

 彼はだるそうに顔を上げ、私を見て睨んだ。
 その表情は昨日とは違っていた。苛付いている。心なしか呼吸も少し荒くなってきているような気がした。
 その時私は本能的に恐怖を感じた。自分から入っていったのに、今すぐドアを閉めて逃げ出したいような気分になった。
 デッドエンドというものはここからが怖いのかもしれない。
 きっと水が足りないんだ。もとい、水に含まれているあの毒素が足りないんだ。
 腰が引けるのを感じながら、私は少し覚悟をして言った。
「水を、持ってきたんです」
 ぎゅっとコップを握り締めた。ゆらり、と小さな水面が揺れた。
 彼は私を一瞥し、視線をコップへと移してから鼻で笑った。

「いらねぇよ、そんなもん。どうせ何も入っちゃいねぇんだろ?」

 余計なことはしなくていいから出てけよ。彼はだるそうにそう言った。いちいち喋りたくもないのかもしれない。
 何故か私はここを出ようとは思わなかった。思った時には私は彼へと歩き出していた。
 1歩1歩その距離を縮めて、目の前で見下ろせるまで近付いた。
 私はゆっくりとしゃがみ込んで、膝に顔を埋めている彼の隣り……いつでも飲めるようにすぐ近くにことんと置いた。
 彼はもう1度顔を上げた。そして思った以上に近づいてきた私に驚いたような顔をして、すぐにまた私を睨んだ。

「だから、いらねぇっつってんだろ。さっさと出てけよ」
「嫌です」

 言ってから気付いた。私は今何と言ったのだろう。嫌ですって、何が嫌なのだろう。
 彼もその答えは予想してなかったらしく、すぐに返事は返ってこなかった。
 自分でも何が嫌でここに留まろうとするのかはわからなかったが、考えるより先に言葉が出てきた。
 思考だけが驚くくらいに冷静だった。



「……ほんとは、手当てもしたいんです。少しでも楽にしてあげたいんです。だけど出来ないから、水だけでもと思って持ってきたんです。
 確かにこの水には毒も何も入っていません。貴方の望むものは何一つありません、それでも、」
「―――――――……うるせェッ!!」



 言葉が切れてしまった。身体がびくんと震えあがった。
 彼は今までになかった目で私を睨みつけていた。もともと真っ赤な目がさらに真っ赤になっているようだった。
 息がますます荒くなって、肩で息をしていた。
 私は続けようとしていた言葉を失った。突然のことで、頭の中が真っ白だった。背中を冷や汗が流れる感覚に気付いた。
 彼はギリ、と歯を鳴らし、怒りに震えた目で私へと訴えかけてきた。

「いらねぇっつってんだろ! 同情しやがって気持ちわりぃんだよ!さっさと出てけ!
 俺はなぁ、そうやって都合のいい時にだけへらへら寄ってくるお前みたいな人間が大ッ嫌いなんだよ!」

 言葉のひとつひとつが矢となり剣となり銃となり私の心に刺さってきた。
 人間を心から憎む言葉だった。デッドエンドは人間とは相容れない。そう教えられているようだった。
 私は身体が硬直してしまっていた。その場から動けなかった。
 だけど彼は言いやめることをしなかった。恐怖に震えているであろう私の顔を見て舌打ちし、怒りに震えた声で私に怒りをぶつけてきた。
 そしてその声は深い悲しみと、涙が絡んでいるようにも思えた。
 彼は泣いていた。真っ赤な目から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちていく。





「……ッ何がデッドエンドだ、何が悪魔だ! てめぇらが勝手に生み出したもんじゃねぇか、ふざけんな!
 母が腐った水を飲んだばかりに人間に殺され、捨てられた俺の気持ちがわかんのかよ! この偽善者が、勝手なこと言ってんじゃねぇッ!
 今更へらへら寄って来やがって何様のつもりだよ! 来るんじゃねぇよ、1人にさせろよ、どうせお前も俺を殺す気なんだろ?!
 1人で死んでやるよ、俺に触るだけでお前も感染するもんな!
 出てけよ、もう死んでやるからよ! 迷惑なんかかけねぇよ、もう出てけよッ!!」






 ――――――……!

 私は、今。
 忘れていたあの時の言葉を、思い出した。




『―――――……デッドエンドだとか…、人間じゃないとかっ…そんなのはこの世界にはいないんだ……っ!
 ここに、いるのは……っ、人間だけだ、みんな人間なんだ、人を殺して…楽しもうが……っ、目が赤いとか……そんなの、どうでもいい…!
 人間なんだよ……こいつらは、お前と同じ人間なんだ、1人なんかじゃないんだよ――――――……!』



 
 

 ――――――。
 もうどうでもよかった。
 肌に触れれば感染するとか、長時間同じ場所にいると感染するとか、そんなのはもう、どうでもよかった。
 
 私は、傷だらけの彼を抱き締めていた。
 その肌はとても冷たくて、人間とは少し違った感触で、だけどそんなのどうでもいい。それでもいい。
 私はこの人に伝えたいことがあった。
 そしてそれが、最後の最後であの人が私に伝えた、一番大切なことでもあった。


「……っ私の恋人は、貴方のようなデッドエンドに殺されました。だけど、だけどあの人は、貴方がたのことを憎んでなんかいませんでした、
 みんな世界が悪いって、貴方たちは悪くないって、デッドエンドも私たちと同じ人間だって、そう言ってあの人は死にました。
 っあの人の言う通りです! デッドエンドなんていないんです! 貴方も私も人間なんです、
 ッ1人なんかじゃないんですよ……―――――!」
 


 何時の間にか私も泣いていた。過去に何度も涙を止めようとした経験があるが、この涙だけは止めようとは思わない。
 そうだ、私は、最初からデッドエンドなど憎んではいなかった。
 私は、最初からあの人の言う通りに生きてきていただけだったのだ。
 どうして気付かなかったのだろう。どうして、気付いてあげられなかったのだろう。
 彼は抵抗しなかった。しばらく時間が止まったように硬直して、肩を震わせて泣き始めた。もしかしたら、過去に抱き締められた経験がないのかもしれない。
 誰にも抱いてもらえなかったその身体は、小さな子供のように泣いていた。
 デッドエンドなんていない、ここにいるのは人間だけだ。そう言い続けて死んでいった大切な貴方。
 貴方の願いは、私が叶えます。
 どうか安らかに、眠ってください。

「………………ッ放せよ……」

 その答えの代わりに腕の力を強くした。離したくはなかった。
 離したら今にも彼は死んでしまいそうだったから。
 この人だけは、死んで欲しくなかった。
 デッドエンドだとか人間じゃないとか、そんなことはどうでもいいんだ。だけど、だけどこの人は、


『お前ら、そのへんにしとけよ』


 私を、助けてくれた。
 それだけで、充分じゃないか。





 彼の嗚咽が止まっても、私の腕は彼を放すことはなかった。
 私も彼も泣くのを止め、この静かな空間に2人で佇んでいた。

「――――――……なぁ、」

 口を開いたのは彼だった。私は一言、はいと返事をした。
 彼の声は大分弱々しくなっていた。呼吸音も同じだ、ときたま深い息をゆっくりと吐いているだけだった。
 腕もぐったりとして、さっきよりも私にかかる体重が多くなったような気がする。
 私はしっかりとその身体を支えた。
 彼は深い息を吐くのと同時に、小さくてか細い声を私に向けた。

「…………俺も、人間でいいのかな……」

 私は深く頷いた。力強く「はい」と返事をした。その耳に届くように、その心に届くように。
 そして私もこの人に聞きたいことがあった。
 私は「ひとつ、聞いてもいいですか」と彼に問うた。彼は姿勢を変えず、「ん?」と返してきた。
 聞いていい質問なのかはわからない。だけどどうしても聞いてみたかった。
 私はゆっくりと息を吐いて、彼へと言った。


「名前、教えてください」



 私の肩に顔を預けていた彼は少しだけ顔を上げた。考えているようだった。
 もしかしたらこれは聞くべきではなかったのかもしれない。名前なんて、この人には必要なかったのだから。
 だけど彼はゆっくりと深呼吸をするように、またゆっくりと私の肩へとその顔を預けてきた。
 

「――――……コウヘイだよ……。漢字までは、忘れた」



 コウヘイさん。
 私はその名前を1度だけ呼んでみた。すると彼は私の肩の中でくすりと笑った。
 どうしたの、と聞けば、「もう何年もその名前を呼んでもらっていない」のだと彼は答えた。久々に聞いた名前に少し違和感があるのだそうだ。
 素敵な名前ですね、と言えば、「別に」と答える。
 だけどお母様につけてもらったんでしょう? と聞けば「そうだよ」と答えた。
 この会話が、酷くいとおしかった。
 だけどこの会話が最後だと、私は理解していた。
 その時だった。窓から眩しい程の光がカーテン越しにキラキラとこの部屋に差し込んできた。
 日の出だ。この部屋からは日の出が見えるのだ。キラキラとした光はこの部屋全体を明るく染め上げていく。
 朝ですよ、と一言告げた。彼はだるそうに顔を動かし、差し込んで来た光に目を細めた。そして一言、綺麗だと呟いた。
 私はこの光を何度も見た。だけどこの光は、どこか特別なもののように思えて仕方がなかった。
 ふぅ、と彼の深い息の音を聞いて我に返った。
 もう終わりだ。きっと、この光がこの人を迎えに来たんだ。
 彼は笑っていた。眩しい光を受けて、幸せそうに微笑んでいた。






「…………ありがとう」






 そう言って彼は、深く長い息をゆっくりと吐き出していった。
 そしてその後、息を吸おうとはしなかった。
 私の肩に顔を預けたまま、幸せそうに眠っていた。
 彼を抱いていた私の腕の力が強くなった。目が熱い。視界が滲む。
 私はもう1度泣いていた。彼の幸せを祈って、彼の身体を抱いて泣いていた。
 この身体に温もりなんてものはない、柔らかさなんてものはない、だけどこの身体は間違いなく人間のものだった。
 やっと、やっと救われたと思った人は、救われたと思ったと同時に行ってしまった。
 何が平和だ、何が自由だ。
 この世界にそんなものはないんだよ。
 彼がこうして死んだことが、その何よりの証拠だった。
 
 ―――――。

 電話が鳴っている。きっと刑事さんだ。出て、報告しなければいけないところだったが、立ち上がりたくはなかった。
 私が電話に出ないことに気付けば刑事さんだってこちらにやってくる。それでよかった。
 私はこの身体を離したくはなかった。
 ただそこにあるはずもない温もりを、この手でしっかりと抱き締めていたかった。




Story is DEAD END.



あとがき