God bless you.

-io felicito.



 「愛してる」の言葉も大きな腕も優しさも温かさも何もいらない
 これから貴方に会うことはないのだから
 そんなものもらっても辛いだけ 身体は軽い方がずっとずっと速く走れるの
 だからさよなら すきなひと


- 12 -



 外に出ると、雨はまだ降り続いていた。
 大粒の雨が路上に広がっていく。
 あの時も、こんな雨が降っていたことを思い出す。5年ぶりに見た外の景色は雨に打たれてずぶ濡れだったんだ。
 俺は裸足だった。この服以外何も持っていかないと決めたから。
 ふと足元を見た。1週間前ここまで走ってきたときには傷だらけだったはずだった。
 今はどうだ。俺の両足にはきちんと包帯が巻かれていて、痛みもない。
 
 ――――――……リィ。

 ナイフを握りなおした。
 これ以上泣いてたまるか。俺は顔を上げた。目の前に広がるのはまだ薄暗い町並みと激しく路上を打つ大粒の雨。
 走りだそうと思って、もう一度振り返った。
 リィの家。1週間俺を助けてくれた。温かかった、優しかった。
 
 しあわせだった。
 
 あの1週間どれだけ俺が幸せだったか満たされていたか。
 今となってはそれを振り返ることすら許されないが、それだけは確かだった。
 じゃぁな、リィ。

 俺は走り出した。大粒の雨が肩を、髪を、足を濡らしていく。
 この大粒の雨が全てを溶かして、流していってくれれば。そんな甘いことを考えてもどうにもならないことくらい知っている。
 だけど願わずにはいられなかった。
 出来るならずっとあの時間の中にいたかった。
 出来るならずっと一緒にいたかった。
 出来るなら。


 いつから狂い出した?
 俺があいつを殺してから?
 俺があいつに抱かれてから?
 俺があいつに連れて来られてから?

 リィと、出会ったときから?



 この雨がずっと続いてくれればいい。
 俺の体温を奪って、体力を溶かして、涙を隠してくれる。
 そしていっそこの雨が俺を殺してくれたら。
 そうしてくれたら。



 走っていた足を止めた。
 どこまで走ってきたのだろう。道もわからず、ただリィから遠ざかるようにと走ってきた道を振り返ってみても、見覚えはなかった。
 辺りを見回してみても、この町並みに見覚えはなかった。
 自分の記憶を超えるくらいに走ってきたのかもしれないし、ただこの町並みを忘れているだけで実はそんなに距離はないのかもしれない。
 大粒の雨はまだ止まなかった。ナイフを握った手が冷たい。息を吐き出すと、空気が濁って白く震えた。
 息が震えていた。足元の包帯はもう包帯としての機能をなくしかけている。
 よく見れば足元には血が滲んできていた。今は冷たい雨のおかげで痛みは感じない。
 悪いな、リィ。折角お前が手当てしてくれたのに、これじゃ台無しだ。
 俺は解けかけている包帯を取った。手に取って眺めてみる。水を吸ってすっかり重くなったそれは所々血が滲んでいた。
 捨てて行こうかどうしようか迷ったが、捨てることにした。手を離せば重くなったそれは簡単に落ちていった。

 俺の足はまた裸足になってしまった。


 寒い。息が震える。春になったばかりのこの季節、大粒の雨はあまりに冷たく俺の身体へと落ちてきた。
 このまま死んでしまうのもいい。
 どうせそれほど執着していない世界だ。
 今ここで死んだって悲しむ奴なんていないんだし。とうの昔に世界から忘れ去られた身なのだから生きていたって仕方ない。
 だけど俺はまだ走りたかった。ずっと遠くまで走って、知らないところで死にたかった。
 そう思って俺は走りだそうとした。


 走りだそうとして―――――……





「―――――……ッナーヴァ!!」


 

 耳を、疑った。
 その声は、その声は。
 ナイフを持ったままゆっくりと振り返る。
 そこには……


「………な、んで………」


 息を荒らげて、肩を震わせて、ずぶ濡れになって立っている
 リィが、いた。

 俺の思考は止まっていた。走りだそうとした足は動かすことが出来なかった。
 視点は一点に固定されて、逸らすことが出来なかった。
 今俺から少し離れたところに立っているリィは、ずぶ濡れになりながらまっすぐ俺を見つめていた。
 そのリィの口元がわずかに動く。

「ナーヴァ、」
「ッ来るな!!」

 口元と同時に、リィの足が俺に向かって一歩踏み出したのを俺は見ていた。
 咄嗟に握っていたナイフを突きつける。リィの足も止まる。
 1週間前のあの日と同じように。
 それはまるで再現されているようだった。時間が巻き戻されているようだ。まさかまた、リィにナイフを向けることになるなんて考えもしなかったけど。
 リィはナイフを見なかった。驚いた様子もなかった。ただじっと俺を見ていた。
 俺はその視線が耐えられなかった。気が狂ってしまいそうだった。
 リィの目は、正義を意味しているように見えた。


「…………手紙、読んだんだろ? 読んだからここに来たんだろ……?」


 大声を張り上げたい思いを抑えて静かに問う。ナイフを握った手が震えているのがわかる。
 リィは答えない。
 その反応を肯定と受け止めて俺は続ける。


「っだったら、だったらわかるだろ? 俺がお前に助けられるまでどうやって生きてきたか。どうして5年間もいなかったのか。
 ……俺はなぁ、罪人なんだよ! 男に抱かれて人を殺した、どうしようもない奴なんだよッ!」



 涙が止まらない。
 雨が降ってくれていてよかった。この雨が自分の涙を誤魔化してくれる。
 罪人らしくしてくれる。
 それでも言葉は雨のように溢れ出していた。今更何を喋ることがあるのかと自分でも思うが、一度糸が切れてしまったものは止まらなかった。
 この、思いを。



「誰も助けてくれなかった! 誰も気付いてくれなかった! あの5年間は地獄だった、神の存在だって否定出来たさ!
 俺の身体はもう死んでるんだ、血まみれなんだよ! だからお前と一緒になんていられない、わかるだろ?


 ――――……ッ人殺しは神の子と一緒には生きられねぇんだよ!!」







 俺は泣いていた。
 どうしようもないくらいに泣いていた。
 もう何も聞きたくなかった、何も見たくなかった。

 もう死にたかった。



 リィはしばらく答えなかった。
 どれだけ時間が経ったのだろう。ナイフを支え続けるのにも疲れたので腕を降ろしてしまった。
 土砂降りの雨の中に二人、距離を縮めることもないまま立ち尽くしている。



「――――――……ナーヴァ」


 口を開いたのはリィだった。俺は俯いていた顔を上げる。
 顔を上げた先に見たリィの表情は優しく、包み込むような温かさがあった。
 俺は本能的に恐怖を感じた。俺の身体は、優しさも温かさも拒もうとしていた。思わず一歩後退する。

「聞いてくれないか」

 ハッキリとリィは言った。
 その声は土砂降りの雨の中でもよく聞こえた。
 俺が無反応なのを見て、リィはそれを肯定と受け止めたらしく続ける。




「……確かに、手紙読んだよ。全部読んだ。お前には感謝してるよ、全部書くの辛かっただろうからな。
 辛かっただろうに、全部お前は俺に教えてくれて、俺すごく嬉しかったんだ。
 だけど俺は、お前と一緒にいたいよ。お前といた1週間は俺にとっても幸せだった」




 俺は動けなかった。今のリィの言葉が信じられないでいた。
 答えないと言うより答えられなかった。
 信じるな、こいつの言ってることはみんな嘘だ。いつかお前を裏切ってしまうぞ。どこかでもう一人の俺が囁く。
 咄嗟にナイフを握りなおした。いつでも構えられるように、いつでもリィを、殺せるように。

 リィは打ちつける雨に顔をしかめながら、雨音に掻き消されないように自分の声をしっかりと俺の耳まで届けてきた。


「…ったとえお前に、どんな過去があるとしても! 男に抱かれたとしても、人を殺したとしても!

 ――――……ッお前はお前だよ、ナーヴァ!!」


 




 ―――――――……。
 その声ははっきりと俺の耳に届いた。
 今まで誰にも言ってもらうことのなかったその言葉。
 信じてもいいのだろうか。俺はこいつを、こいつの言葉を、信じてもいいのだろうか。
 
 おいおい何やってんだよ。何心開こうとしてんだよ。忘れたのか? お前は罪人。ナイフを捨ててみろ、あいつはまたお前を襲うぞ。
 目の前にいる男がいつも正直だとは限らないんだぜ。
 
 強引に心の中を割って入ってくるようなその言葉に身体の震えが止まらない。もう聞きたくない。
 耳を塞いでしまいたい衝動にかられる。お願いだから、お願いだから俺を見ないで。
 もう俺の中をかき乱さないで。
 もう充分だ。


 リィはそんな俺に気付かないのかわざとやっているのかまだ続けようとする。



「俺は今のお前が好きだ! 確かに今のお前は5年前とは違うけど、だけど変わってないところだってちゃんとあるんだ!」

「黙れッ!! お前に、お前に何がわかる! みんなそうやって信じ込ませていつだって俺を裏切るんだよ!
 もう誰の言葉も聞きたくない! 誰も見たくない! 綺麗事なんてもう沢山だッ!!」

「ッ違う!!」


 びくんと身体が震えた。
 リィは一瞬強く言ったことを後悔しているようだった。少しだけ俯き、すぐに顔を上げた。
 何か心を決めたような、そんな表情をしていた。


「お前は偉いよ! 俺と出会うまで、お前はちゃんと生きててくれた! お前は死にたかっただろうけど…
 俺はお前に生きてて欲しい! 俺だってお前が好きだ! 教会で初めて会ったあの日から、

 ずっとお前だけを愛してる!!」







 もう何も要らない。
 もう何も聞きたくない。
 その言葉だけで充分だった。
 涙が止まらない。
 俺はその言葉を、その言葉だけをずっとずっと待っていたのだから。


 涙で滲む視界の中で見たリィの表情は本物だった。
 もう、いいだろう。
 お前の勝ちだよ、リィ。


 俺は、握っていたナイフを足元に放り投げた。
 土砂降りの雨が叩きつける音に混じって、カランという金属音がとても印象的だった。


 left : 9th September 2005

 たったそれだけで厚い殻は溶けていく
 あなたが私を愛してる たったそれだけのことが

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